中国紹興酒のトップメーカー、古越龍山のメーカーズディナーが6月19日、椿山荘で開催されました。
当社が、古越龍山の東京事務所代表、夏良根さんとお仕事のご縁があることから、お招き頂いたのでレポートします!
(司会通訳は当社の名翻訳家、ふーさん)

この日のテーマは「越酒行天下」。(越酒は紹興酒の古称)
”紹興酒は天下にあまねく行き渡る”、という意味です。
清の時代に、中国全土での紹興酒人気の凄さを讃えた、有名なフレーズとのこと。

中国文明の黎明期と共に始まり、五千年もの歴史を持つ紹興酒は、既に世界中で知られ愛されていますが、
産地である紹興の方々は今、
「本当の紹興酒を知ってほしい」という強い思いを抱いています。
そして、世界に「本当の紹興酒」を知ってもらうことで、
再び「越酒行天下」を実現しようという様々な試みが行われているのです。

例えば私たち日本人がよく知っているのは「陳年紹興酒」。
というより、これ以外の紹興酒をご存知ない方も多いのではないでしょうか?
最も流通している紹興酒なのは確かです。
しかし、陳年紹興酒だけで終わるのは、あまりにも勿体無い。
紹興酒の世界は進化しています!

ディナーでは、5種類の紹興酒が椿山荘の美味なる中華料理とのペアリングで供されました。

紹興から甕のまま慎重に運ばれ、この日やっと通関したばかりの希少なもの、国賓に供する濃厚な味わいの陳年、
優しい桂花風味の女児紅18年、なんと30年ものの重量級の味わいなど、それぞれの個性が際立ち、
「紹興酒」といえばひとつのイメージしか浮かばなくてごめんなさい、と謝りたいほど多彩な香りと味でした。

そして、この夜のヒロインは、現在古越龍山社が新たにフューチャーした、「只此青玉(ししせいぎょく)」という紹興酒です。
容器の繊細な色合いは玉の腕輪のよう。
名前も「只此青緑(ししせいりょく:ただ此の青緑)」という、緑の大地を讃える舞踏劇とコラボしたものです。
他のお酒がそれぞれの個性を主張する中、上品で優雅なバランスが印象的で、ヒロインに相応しい味わいだと感じました。

そして私がいちばん美味しいと感じたのは、東京事務所代表の夏さんが、有機農法の米作りから手がけて開発した、
ノンカラメルの「夏の酒」でした。
同じテーブルにいた方々から、「これは紹興酒?!」「ワインと言われて出されても信じてしまう!」「どんどん飲めちゃう!」と、
口々に感嘆の声が上がっていました。

「夏の酒」という命名は、生みの親の夏さんのお名前が由来ですが、まさに初夏の空のような軽やかで華やかな味わいです。
ノンカラメルなので紹興酒独特の重みから解き放たれ、日本食、フレンチ、スペイン、イタリア料理、なんでもいけそう。
ぜひ試してみていただきたいです。
きっと驚くはず。

 

紹興酒の世界がこれほどに豊かなことを世に知らしめたいという、関係者の方々の情熱が感じられ、
下戸の私でさえ美酒の数々(と、美味中華)にほろ酔いの夜でした。

 

サプライズエンタプライズ 中国チーム
松橋安里

サプライズエンタプライズ  中国チーム
松橋安里

トークショーのご紹介、最終回をお届けいたします。

ふーさんは「国宝」の翻訳における「受容化」(読み手の文化に適応させ、違和感を無くす手法)のポイントとして、
1)口調、
2)言葉、
3)呼び名、
4)演目、
5)歌詞 を挙げ、具体的な手法を解説しました。

この中で興味深かったのは、ふーさんが歌舞伎用語を翻訳する際、中国人の読み手に歌舞伎を "京劇としてイメージさせない” ための工夫をしたお話。

ふーさんのトークショーでのお話から少し逸れますが、歌舞伎と京劇について補足をしておきたいと思います。
歌舞伎と京劇には類似点も見受けられますが、実のところ京劇は歌舞伎と似て非なるものなのです。

歌舞伎は17世紀初頭に大道芸として発祥、江戸時代中期に現在に近い形が完成し、その後あくまでも日本独自の芝居として発展して来ました。
京劇は18世紀末以降に北京で隆盛し、形式はそれまでにあった中国の様々な古典演劇が融合したものです。
西太后の手厚い庇護を受けたことで、宮廷娯楽として成熟しつつ、一般に広がっていきました。
つまり、根本において文化的背景が全く異なります。

でも見た目がちょっと似ているよね、と思われる方は、とりあえず「歌舞伎が京劇を模倣した部分は見られない。」ことをご理解しておいて頂ければよいかなと思います。

大きな差異で言うと、京劇は歌劇ですから役者が唄を唄います。歌舞伎の音楽部分は全て伴奏者が演奏し唄います。
以下は細かい説明になってしまいますがお付き合いください。

例えば、歌舞伎の隈取(くまどり。役柄や感情の誇張表現)と中国の臉譜(れんぷ。人物の役柄を表現)。
どちらもキャラクターを伝える化粧法ですが、隈取は英雄や怨霊など、一部の役柄の血管と顔面筋肉をデフォルメし、性質を誇張するものです。
この歌舞伎の画像をご覧ください。ヒーローの強さと心の昂りを表すため、顔の血管(腕の血管までも)を強調しています。
乱暴な言い方をすれば、例えば怒りで青筋を立てる💢の記号に近いのです。
一方、京劇の化粧は古代の仮面劇の流れを汲んだもので、それぞれの役柄を細かく描き分けています。

つまり、隈取(くまどり)は一部の役柄の性質や感情を強調し、臉譜(れんぷ)は全ての役柄の説明をするものです。

「国宝」の翻訳では「隈取」を京劇用語の「臉譜」としつつ、ふーさんは隈取の説明を注釈として入れています。
臉譜という言葉で直感的なビジュアルイメージを与えた上で、異なる性質を解説するという工夫だと思います。

このことは、この日いみじくもふーさんが言った、
「日本の漢字と中国の漢字は別の言語」というコメントにも通じます。
形は同じ様に見えても、文化の根本的な差異があり、多くの場合意味合いが異なるのです。

ですから、「受容化」のみを目指して京劇用語を安易に適用すると、中国人読者の脳裏には歌舞伎が京劇として再生されてしまいます。
ふーさんはそれを避けるため取捨選択を行い、歌舞伎独自の色が濃いものについては、日本語をそのまま使用することで「異質化」を図りました。

この手法ですと、中国人読者にとって意味が通じない、あるいは日本語と異なる解釈になる恐れがありますが、そこは注釈によって補うことで、読者は観たことのない歌舞伎の世界を想像し、思いを馳せることが出来ます。
これも、異国の小説を読む醍醐味ではないでしょうか。
受容化の中に異質化も取り入れることで、訳者は読者に寄り添うだけではなく、原作の意図を尊重した表現が可能になります。

「国宝」という作品は、極道や歌舞伎の世界という、現代日本人にとってもかなり”異質”なシチュエーションです。
描かれる時代も昭和39年からですので、すでにその時代を知らない読者は多いことと思います。
しかしこれらの世界、時代を知らなくても、私たちは著者の筆力によってそこへ誘われ、自らの想像力で補い、”異質”な世界を楽しみます。
翻訳においても、ふーさんの言う通り読者の想像力を信じて任せるという一面は重要であり、翻訳者の永遠の課題なのでしょう。

最後にもう一度、ふーさんの超訳の凄さを知る引用を。

「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」で、傾城(けいせい。高級遊女)に化身した桜の精が、関守(せきもり)と廓話(くるわばなし)で戯れ合う場面です。
この掛け合いは、廓話という特殊なニュアンスの問題だけではなく、日本人独特の腹芸といいましょうか、言葉の省略が多いため、翻訳がある程度説明的になるのはやむを得ません。
かといって、冗長に感じさせることは避けなければなりません。

ふーさんがここで使った工夫は、中国古典戯曲の最高峰とされる「元曲」でした。
元の時代(十三世紀後半〜)に隆盛した歌劇で、明、清の戯曲にも繋がり、京劇にも影響を見ることができます。
ふーさんは、古典に精通している有識者の方などの助力を得て、元曲の名作の言葉遣いを参考に、現代人が理解できる形にしたそうです。

(括弧内は中国語)

関兵衛:時に太夫さん、お前のお名はエ。(兀那娘子,如何称呼?)
墨染: 墨染と、いいやんす。(小女子名唤墨染。)
関兵衛:ナニ、墨染。あの桜の名も、元は墨染。(墨染?那边的樱花,早先也叫墨染。)
ハテ、ええお名でござりますのぉ。(呵呵,此名甚妙。)
時に太夫さん、おれはこれまで廓通いをしたことがない。(兀那娘子,我不曾去过花街,)
廓の駆け引き。(着实不懂这花街的门道。)
墨染: 馴染みのしこなし、間夫狂い。(柳巷恩客几多风流,花街女子百般痴情,)
実と。(一片真心奉于你心。)
関兵衛:噓との。(可旁人多议,此乃虚情假意。)
墨染 :手管の所訳。(花街柳巷亦有各中道义。)
関兵衛:裏茶屋入りの魂胆まで。(愿闻其详,进得里巷,入幕成宾)
墨染 :そんならここで、話そうかエ。(既是如此,此处言说即好。)

原作者(この部分は江戸中期の狂言作者、宝田寿来ですが)の意を尽くしつつ、たとえ読み手が見る世界が当時描かれたものとは異なるとしても、
古典の雰囲気を心地よく味わえる、受容化翻訳の理想の形ではないでしょうか。

私はふーさんの「国宝」の翻訳を通して、日本の古典を雅やかに受け止める、中国文化の奥深さを改めて感じたのでした。

「国宝」の映画は今月クランクイン、2025年に公開予定とのこと、中国での公開ではふーさんの字幕で見られるのでしょうか。楽しみでなりません。

サプライズエンタプライズ 中国チーム
松橋安里

この日のテーマ、吉田修一著「国宝」の内容をひとことで言うなら、「長崎で生まれた任侠の親分の息子が歌舞伎役者になり、
数十年後に歌舞伎界の頂点を極める。」
一体どんな話?!と思いませんか?!
父親の凄惨な死をきっかけに、主人公の運命は歌舞伎の道へと動き出し、物語の舞台は大阪へ、
そして東京へと、ダイナミックに展開します。
芸の世界で死に物狂いでもがき続ける主人公たち。芸道小説好きの方でなくとも、心踊らせながら最後まで楽しめる作品だと思います。

一方、翻訳という面では、恐ろしいほど多彩な壁が立ちはだかっています。
長崎弁、大阪弁、京都弁。極道や歌舞伎の世界では人の呼び方からして特殊です。
引用される民謡や流行歌、そして歌舞伎の演目、台詞、詞章(ししょう)。
ふーさんはこの翻訳に一年半掛けたとのこと。その労力と葛藤は、語り尽くせないものがあるはずです。
トークショーで翻訳例に挙げられたのはごく一部に過ぎませんが、そのひとつをご紹介しましょう。

歌舞伎「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」。
江戸時代中期の古い芝居で、歌舞伎らしい摩訶不思議さが溢れています。
舞台は平安初期。ある貴人が政争から逃れ、逢坂山(おうさかやま)の関所の関守(せきもり)、関兵衛(せきべえ)の家で暮らしています。
降り積もる雪景色の中、なぜか満開の桜の大木(妖しい力を持っていますよ)。

貴人の恋人、小野小町が現れます。
関兵衛が一人旅の美女を怪しみ、あれこれと難癖をつけていると、貴人が小町姫に気づき涙の再会。
そして三人の秘密が次第に明らかになって行きます。

この辺りの展開は、呑気なおじさんキャラの関兵衛が、実は謀反を企む極悪ラスボス、大伴黒主(おおとものくろぬし)だった〜!
となるための伏線。
常磐津(ときわづ。歌舞伎伴奏音楽のひとつ)に乗った、踊りによる掛け合いが多く、古い歌舞伎らしい大らかな雰囲気が見どころです。

雪の夜、桜の妖木が大願(謀反)成就の鍵だと知った関兵衛が一人酒盛りではしゃぎ回り、
木を切り倒そうとすると気絶してしまいます。
すると闇に浮かび上がる、桜の精が化身した傾城(けいせい。高級遊女)、墨染の姿。
ちなみに、墨染は恋人を大伴黒主に殺され、恨みのあまりその生き霊が桜の精と合体しているらしいという、ややこしい状況。
それはさておき。

ふーさんが翻訳例として挙げたのは、桜の精/墨染が姿を現すシーン。重厚な常磐津で語られます。
このあと二人がお互いに正体を現し、派手な大詰めとなる前の、美しくも妖しい雰囲気に満ちています。


画:豊原国周(とよはらくにちか)「積恋雪席扉」積恋雪関扉』(都立中央図書館特別文庫室所蔵)

以下は引用された常磐津の一節です。ご参考までに日本語の現代語訳をつけました。

〽 幻か深雪に積もる桜かげ
実に朝には雲となり 夕には又雨となる

現代語訳:
幻でしょうか 深く積もった雪の中に咲く桜
朝には雲のように 夕には雨のように
(満開の桜の花びらを雲や雨に見立てている)

〽 仇し仇なる名にこそ立つれ……
禿立ちから廓の里へ

現代語訳:
咲いたかと思うとすぐ散ってしまう、つれない桜花のように、
浮き名の立った(遊女として世に知られた)私です……
廓(くるわ)には、幼い頃から見習い子として入りました

中国語訳は、
〽 皑皑积雪深,樱花落影幻亦真
旦为朝云,暮为行雨,又见花缤纷

〽 奴自名满花柳街,娉婷如樱立此边……
花街见习几多年,少时已入花巷间

翻訳では日本語のニュアンスが省略されることなく表現されています。
そして使われている語句は現代中国語ではなく、日本人に分かりやすく言うと「漢詩」調とでも言いましょうか。
「奴自名满花柳街,娉婷如樱立此边……」
この部分を逆に書き下し文風にしてみると、少しは雰囲気が皆様に伝わるかもしれません。
「奴(自分を卑下していう)、自ずから名は花柳の街に満ち、
娉婷(ひょうてい。艶やかで優美な様子)として桜の如く此辺に立つ」

また、ふーさんは俳句や短歌の基本である七五調が歌舞伎でも重視されていることから、七文字、五文字のリズム感の再現を試みたとのこと。
漢詩風な韻も踏んでいます。
その結果、中国語の字面、音、リズム全てが美しく、もはや一つの中国語作品と言ってよい完成度ではないかと感じました。
古典の見識があるふーさんだからこその技でしょう。

前回のブログでご紹介したように、翻訳では「受容化」、読み手側の文化に寄り添い違和感のない訳文にする手法と、
「異質化」、敢えて原文の言葉や文の構成を残すことで、読み手に異文化を感じさせる手法があります。

この詞章の訳文は「受容化」によって異文化を乗り越える翻訳の見事な例で、
当社代表の井原美紀が、「ふーさんは現代の上田敏」と思わず言った言葉に深く頷く私です。

次回はブログ最終回、歌舞伎と京劇のお話!

(トップ画像:楊州周延(ようしゅうちかのぶ)画 『積恋雪積扉』)

サプライズエンタプライズ 中国チーム
松橋安里

夏目漱石が英語教師をしていたときのこと。
学生が ”I love you”を「我、君を愛す」と訳しました。
漱石は「日本人はそのような言い方はしない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい。
それで十分気持ちが伝わる。」と言った…都市伝説ではありますが、文化の違いをはっきり示している逸話です。
さらには時代性の影響や伝える相手、目的まで考えさせられます。

(今の時代だと「月が綺麗ですね」と言っても、「ですね〜」で終わるかもしれませんね。言いたければ、察してくれる相手を選ばなくては。
ちなみに、お断りしたいときは「手が届かないから綺麗なのです」と言うそうですよ。)

そして、「正しい誤訳」の様々な例。

1.「画面が引き締まる」
中国訳:
× 让画面显得紧缩
“引き締まる”を辞書による直訳として出る単語の“緊縮”にした結果、
「画面が多数の人物などで過密、もしくは縮小して見える」という意味になってしまう。
〇 给画面增添亮点
この訳文は“引き締まる”という日本語の単語からは離れていますが、
「画面に目を惹くポイント/焦点ができる」となり、本来の意味が伝えられます。

このフレーズは、アンリ・マティスの絵「縞ジャケット」に添えられた説明文、
「緑の装飾を下げた黒い首飾りによって、画面が効果的に引き締まっています」から。

2.「安全センサーが作動している」
中国訳:
× 安全感应器启动
こちらも辞書による「正しい」誤訳。
“作動“の訳語に”啟動”が当てられたことで、安全センサー電源ON、という意味になります。
〇 安全感应器报警
安全センサーが作動、つまり緊急事態を告げるという解釈にするなら、もっと強い“報警”という単語にしなければ、中国人に伝わりません。

実例の提示により、異文化間の差異を乗り越える手法が、明確に提示されて行きました。

そして後半の「国宝」の翻訳裏話と翻訳例へ。

そもそも「国宝」と聞くと中国人は反射的にパンダを連想する、という話は参加者のみなさまに大受けでしたが、
これは笑い話ではなく事実だそうです。実際に「国宝」翻訳版の担当編集者が同僚に「国宝?パンダの本?」と
大真面目に聞かれたと。そのため、誤解を招かない様に、中国語版の表紙では歌舞伎役者の絵姿を使うのが必須だったとのこと。

翻訳に際しての苦労話は想像を遥かに超えるものでしたが、私が一番興味を持ったのは、歌舞伎の台詞や伴奏音楽の詞章翻訳でした。

日本人ですら解説無しでは理解し難い古い言葉のニュアンス、その世界観を、ふーさんは一体どうやって中国語に移したのでしょう?
たとえば、歌舞伎の有名な演目「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」のクライマックスで、桜の精が薄闇の中から姿を現すシーン、常磐津節(ときわづぶし。歌舞伎の伴奏音楽のひとつ)の一節。

〽 幻か深雪に積もる桜かげ 実に朝には
雲となり 夕には又雨となる

現代語訳:
幻でしょうか 深く積もった雪の中に咲く桜
朝には雲のように 夕には雨のように
(満開の桜の花びらを雲や雨に見立てている)

〽 仇し仇なる名にこそ立つれ……
禿立ちから廓の里へ

現代語訳:
咲いたかと思えばすぐ散ってしまう、つれない桜花のように、浮き名の立った
(遊女として世に知られた)私です…
廓(くるわ)には、幼い頃から見習い子として入りました

続きは次回へ。

サプライズエンタプライズ社は、代表の井原美紀が「いかに魅力的で生き生きとした翻訳を提供するか」を会社創立当初からの理念として掲げています。
まさにそのことが、この日ふーさんの翻訳理念として、明瞭かつ具体的に語られたのでした。

2月24日、我が社の中国チームが誇る名翻訳家、伏怡琳(フー・イーリン 以下、ふーさん))さんのトークショーが開催されました。
ふーさんは主に文藝翻訳を専門としつつ、NHK国際放送の中国語キャスターを長年務め、フリーのナレーター、コピーライターとしても活躍中のマルチプレイヤーです。
(ふーさんのプロフィールはこちらから:https://surprise-enterprise.com/ja/about-us/)
場所は銀座の単向街書店(たんこうがいしょてん)。「中日文化のハブとなる」をコンセプトとした、独立系の素敵なお店。

この日のテーマは、
「翻訳によって異文化を乗り越える 〜吉田修一著 『国宝』翻訳者の試み〜」

『国宝』の作者、吉田修一氏の作風は純文学からエンタテイメントまで幅広く、「それぞれ別人が書いているよう」とも評されるほど。数々の文学賞を受賞されていますが、初めての芸道小説である『国宝』(2019年)も芸術選奨文部科学大臣賞と中央公論文芸賞を受賞しました。

本書の幕開けは、なんと極道の組の派手な新年会です。そこに敵対する組の集団が日本刀を振り回しながら乱入、長崎弁の怒号が飛び交う、血生臭いシーン。
主人公は故郷を逃れ、大阪の歌舞伎役者の元に引き取られます。そこで出会う終生の友は、名門の御曹司。日本の高度経済成長期を背景に、数十年に渡り大波が寄せては返すような、彼らの絶望と歓喜、挫折と栄光の物語。
冒頭のヤクザの出入りで一気に上がったテンションが緩むことなく、夢中で彼らの人生を追いかけるうちに辿り着く大団円は、思いもよらぬものです。

歌舞伎の世界を深く掘り下げ、演目の詞章もふんだんに引用されている『国宝』は、この日のテーマ「翻訳によって異文化を乗り越える」に相応しい作品だと思います。
では、ふーさんは一体どのように翻訳作業を進め、異文化を乗り越えたのでしょう。

「国宝」の話に入る前に、翻訳に際しての前提として「受容化(domestication)」と「異質化(foreignization)」について説明がありました。
これはアメリカの翻訳研究家、ローレンス・ヴェヌティ(Lawrence Venuti)が著書(『The Translator’s Invisibility: A History of Translation』1995年)の中で論じた概念です。

「受容化」翻訳とは、読み手が違和感を感じず、すらすら読める訳文。つまり読み手側の文化に適応し、寄り添う形です。逆に「異質化」翻訳には “翻訳された感”があり、読み手は違和感を覚え、異文化を感じます。

受容化と異質化は、読み手側の文化に焦点を当てた、アプローチの手法だとお考えください。
例えば、広告宣伝では「受容化」が最適です。日本人にハワイの観光地を宣伝したければ、“日本人がイメージするハワイ” に思い切り舵を切った表現の方が、強い説得力を持ちます。
学術論文などでは「異質化」が適しています。
原文の特徴や言葉に忠実に訳すことで正確性が保たれ、読み手はその違和感によって異文化に触れることができます。

受容化=意訳、異質化=直訳とも言えそうですが、実際には受容化でも異質化でも、文章の中では意訳と直訳が混在します。むしろ100%意訳もしくは直訳で成立する翻訳は無いでしょう。

翻訳内容に合わせて、アプローチとしての受容化あるいは異質化を選択し、その中で技法としての意訳と直訳を適切に使い分けることで、原文を最適な形で読み手に伝えることができます。

受容化の究極の例として挙げられたのが、夏目漱石の「月が綺麗ですね」のエピソードでした。

続きは次回で…

★このブログを書いている最中に、「国宝」の映画化が決まったというニュースが飛び込みました! 今月クランクイン、25年公開だそうです!!!