翻訳によって異文化を乗り越える 伏怡琳(フー・イーリン)トークショー その②「受容化」と「異質化」の翻訳例

サプライズエンタプライズ 中国チーム
松橋安里

夏目漱石が英語教師をしていたときのこと。
学生が ”I love you”を「我、君を愛す」と訳しました。
漱石は「日本人はそのような言い方はしない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい。
それで十分気持ちが伝わる。」と言った…都市伝説ではありますが、文化の違いをはっきり示している逸話です。
さらには時代性の影響や伝える相手、目的まで考えさせられます。

(今の時代だと「月が綺麗ですね」と言っても、「ですね〜」で終わるかもしれませんね。言いたければ、察してくれる相手を選ばなくては。
ちなみに、お断りしたいときは「手が届かないから綺麗なのです」と言うそうですよ。)

そして、「正しい誤訳」の様々な例。

1.「画面が引き締まる」
中国訳:
× 让画面显得紧缩
“引き締まる”を辞書による直訳として出る単語の“緊縮”にした結果、
「画面が多数の人物などで過密、もしくは縮小して見える」という意味になってしまう。
〇 给画面增添亮点
この訳文は“引き締まる”という日本語の単語からは離れていますが、
「画面に目を惹くポイント/焦点ができる」となり、本来の意味が伝えられます。

このフレーズは、アンリ・マティスの絵「縞ジャケット」に添えられた説明文、
「緑の装飾を下げた黒い首飾りによって、画面が効果的に引き締まっています」から。

2.「安全センサーが作動している」
中国訳:
× 安全感应器启动
こちらも辞書による「正しい」誤訳。
“作動“の訳語に”啟動”が当てられたことで、安全センサー電源ON、という意味になります。
〇 安全感应器报警
安全センサーが作動、つまり緊急事態を告げるという解釈にするなら、もっと強い“報警”という単語にしなければ、中国人に伝わりません。

実例の提示により、異文化間の差異を乗り越える手法が、明確に提示されて行きました。

そして後半の「国宝」の翻訳裏話と翻訳例へ。

そもそも「国宝」と聞くと中国人は反射的にパンダを連想する、という話は参加者のみなさまに大受けでしたが、
これは笑い話ではなく事実だそうです。実際に「国宝」翻訳版の担当編集者が同僚に「国宝?パンダの本?」と
大真面目に聞かれたと。そのため、誤解を招かない様に、中国語版の表紙では歌舞伎役者の絵姿を使うのが必須だったとのこと。

翻訳に際しての苦労話は想像を遥かに超えるものでしたが、私が一番興味を持ったのは、歌舞伎の台詞や伴奏音楽の詞章翻訳でした。

日本人ですら解説無しでは理解し難い古い言葉のニュアンス、その世界観を、ふーさんは一体どうやって中国語に移したのでしょう?
たとえば、歌舞伎の有名な演目「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」のクライマックスで、桜の精が薄闇の中から姿を現すシーン、常磐津節(ときわづぶし。歌舞伎の伴奏音楽のひとつ)の一節。

〽 幻か深雪に積もる桜かげ 実に朝には
雲となり 夕には又雨となる

現代語訳:
幻でしょうか 深く積もった雪の中に咲く桜
朝には雲のように 夕には雨のように
(満開の桜の花びらを雲や雨に見立てている)

〽 仇し仇なる名にこそ立つれ……
禿立ちから廓の里へ

現代語訳:
咲いたかと思えばすぐ散ってしまう、つれない桜花のように、浮き名の立った
(遊女として世に知られた)私です…
廓(くるわ)には、幼い頃から見習い子として入りました

続きは次回へ。

サプライズエンタプライズ社は、代表の井原美紀が「いかに魅力的で生き生きとした翻訳を提供するか」を会社創立当初からの理念として掲げています。
まさにそのことが、この日ふーさんの翻訳理念として、明瞭かつ具体的に語られたのでした。