翻訳によって異文化を乗り越える 伏恰琳(フー・イーリン)トークショー  その④ 歌舞伎と京劇

サプライズエンタプライズ  中国チーム
松橋安里

トークショーのご紹介、最終回をお届けいたします。

ふーさんは「国宝」の翻訳における「受容化」(読み手の文化に適応させ、違和感を無くす手法)のポイントとして、
1)口調、
2)言葉、
3)呼び名、
4)演目、
5)歌詞 を挙げ、具体的な手法を解説しました。

この中で興味深かったのは、ふーさんが歌舞伎用語を翻訳する際、中国人の読み手に歌舞伎を "京劇としてイメージさせない” ための工夫をしたお話。

ふーさんのトークショーでのお話から少し逸れますが、歌舞伎と京劇について補足をしておきたいと思います。
歌舞伎と京劇には類似点も見受けられますが、実のところ京劇は歌舞伎と似て非なるものなのです。

歌舞伎は17世紀初頭に大道芸として発祥、江戸時代中期に現在に近い形が完成し、その後あくまでも日本独自の芝居として発展して来ました。
京劇は18世紀末以降に北京で隆盛し、形式はそれまでにあった中国の様々な古典演劇が融合したものです。
西太后の手厚い庇護を受けたことで、宮廷娯楽として成熟しつつ、一般に広がっていきました。
つまり、根本において文化的背景が全く異なります。

でも見た目がちょっと似ているよね、と思われる方は、とりあえず「歌舞伎が京劇を模倣した部分は見られない。」ことをご理解しておいて頂ければよいかなと思います。

大きな差異で言うと、京劇は歌劇ですから役者が唄を唄います。歌舞伎の音楽部分は全て伴奏者が演奏し唄います。
以下は細かい説明になってしまいますがお付き合いください。

例えば、歌舞伎の隈取(くまどり。役柄や感情の誇張表現)と中国の臉譜(れんぷ。人物の役柄を表現)。
どちらもキャラクターを伝える化粧法ですが、隈取は英雄や怨霊など、一部の役柄の血管と顔面筋肉をデフォルメし、性質を誇張するものです。
この歌舞伎の画像をご覧ください。ヒーローの強さと心の昂りを表すため、顔の血管(腕の血管までも)を強調しています。
乱暴な言い方をすれば、例えば怒りで青筋を立てる💢の記号に近いのです。
一方、京劇の化粧は古代の仮面劇の流れを汲んだもので、それぞれの役柄を細かく描き分けています。

つまり、隈取(くまどり)は一部の役柄の性質や感情を強調し、臉譜(れんぷ)は全ての役柄の説明をするものです。

「国宝」の翻訳では「隈取」を京劇用語の「臉譜」としつつ、ふーさんは隈取の説明を注釈として入れています。
臉譜という言葉で直感的なビジュアルイメージを与えた上で、異なる性質を解説するという工夫だと思います。

このことは、この日いみじくもふーさんが言った、
「日本の漢字と中国の漢字は別の言語」というコメントにも通じます。
形は同じ様に見えても、文化の根本的な差異があり、多くの場合意味合いが異なるのです。

ですから、「受容化」のみを目指して京劇用語を安易に適用すると、中国人読者の脳裏には歌舞伎が京劇として再生されてしまいます。
ふーさんはそれを避けるため取捨選択を行い、歌舞伎独自の色が濃いものについては、日本語をそのまま使用することで「異質化」を図りました。

この手法ですと、中国人読者にとって意味が通じない、あるいは日本語と異なる解釈になる恐れがありますが、そこは注釈によって補うことで、読者は観たことのない歌舞伎の世界を想像し、思いを馳せることが出来ます。
これも、異国の小説を読む醍醐味ではないでしょうか。
受容化の中に異質化も取り入れることで、訳者は読者に寄り添うだけではなく、原作の意図を尊重した表現が可能になります。

「国宝」という作品は、極道や歌舞伎の世界という、現代日本人にとってもかなり”異質”なシチュエーションです。
描かれる時代も昭和39年からですので、すでにその時代を知らない読者は多いことと思います。
しかしこれらの世界、時代を知らなくても、私たちは著者の筆力によってそこへ誘われ、自らの想像力で補い、”異質”な世界を楽しみます。
翻訳においても、ふーさんの言う通り読者の想像力を信じて任せるという一面は重要であり、翻訳者の永遠の課題なのでしょう。

最後にもう一度、ふーさんの超訳の凄さを知る引用を。

「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」で、傾城(けいせい。高級遊女)に化身した桜の精が、関守(せきもり)と廓話(くるわばなし)で戯れ合う場面です。
この掛け合いは、廓話という特殊なニュアンスの問題だけではなく、日本人独特の腹芸といいましょうか、言葉の省略が多いため、翻訳がある程度説明的になるのはやむを得ません。
かといって、冗長に感じさせることは避けなければなりません。

ふーさんがここで使った工夫は、中国古典戯曲の最高峰とされる「元曲」でした。
元の時代(十三世紀後半〜)に隆盛した歌劇で、明、清の戯曲にも繋がり、京劇にも影響を見ることができます。
ふーさんは、古典に精通している有識者の方などの助力を得て、元曲の名作の言葉遣いを参考に、現代人が理解できる形にしたそうです。

(括弧内は中国語)

関兵衛:時に太夫さん、お前のお名はエ。(兀那娘子,如何称呼?)
墨染: 墨染と、いいやんす。(小女子名唤墨染。)
関兵衛:ナニ、墨染。あの桜の名も、元は墨染。(墨染?那边的樱花,早先也叫墨染。)
ハテ、ええお名でござりますのぉ。(呵呵,此名甚妙。)
時に太夫さん、おれはこれまで廓通いをしたことがない。(兀那娘子,我不曾去过花街,)
廓の駆け引き。(着实不懂这花街的门道。)
墨染: 馴染みのしこなし、間夫狂い。(柳巷恩客几多风流,花街女子百般痴情,)
実と。(一片真心奉于你心。)
関兵衛:噓との。(可旁人多议,此乃虚情假意。)
墨染 :手管の所訳。(花街柳巷亦有各中道义。)
関兵衛:裏茶屋入りの魂胆まで。(愿闻其详,进得里巷,入幕成宾)
墨染 :そんならここで、話そうかエ。(既是如此,此处言说即好。)

原作者(この部分は江戸中期の狂言作者、宝田寿来ですが)の意を尽くしつつ、たとえ読み手が見る世界が当時描かれたものとは異なるとしても、
古典の雰囲気を心地よく味わえる、受容化翻訳の理想の形ではないでしょうか。

私はふーさんの「国宝」の翻訳を通して、日本の古典を雅やかに受け止める、中国文化の奥深さを改めて感じたのでした。

「国宝」の映画は今月クランクイン、2025年に公開予定とのこと、中国での公開ではふーさんの字幕で見られるのでしょうか。楽しみでなりません。