翻訳によって異文化を乗り越える 伏怡琳(フー・イーリン)トークショー その③歌舞伎を訳す

サプライズエンタプライズ 中国チーム
松橋安里

この日のテーマ、吉田修一著「国宝」の内容をひとことで言うなら、「長崎で生まれた任侠の親分の息子が歌舞伎役者になり、
数十年後に歌舞伎界の頂点を極める。」
一体どんな話?!と思いませんか?!
父親の凄惨な死をきっかけに、主人公の運命は歌舞伎の道へと動き出し、物語の舞台は大阪へ、
そして東京へと、ダイナミックに展開します。
芸の世界で死に物狂いでもがき続ける主人公たち。芸道小説好きの方でなくとも、心踊らせながら最後まで楽しめる作品だと思います。

一方、翻訳という面では、恐ろしいほど多彩な壁が立ちはだかっています。
長崎弁、大阪弁、京都弁。極道や歌舞伎の世界では人の呼び方からして特殊です。
引用される民謡や流行歌、そして歌舞伎の演目、台詞、詞章(ししょう)。
ふーさんはこの翻訳に一年半掛けたとのこと。その労力と葛藤は、語り尽くせないものがあるはずです。
トークショーで翻訳例に挙げられたのはごく一部に過ぎませんが、そのひとつをご紹介しましょう。

歌舞伎「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」。
江戸時代中期の古い芝居で、歌舞伎らしい摩訶不思議さが溢れています。
舞台は平安初期。ある貴人が政争から逃れ、逢坂山(おうさかやま)の関所の関守(せきもり)、関兵衛(せきべえ)の家で暮らしています。
降り積もる雪景色の中、なぜか満開の桜の大木(妖しい力を持っていますよ)。

貴人の恋人、小野小町が現れます。
関兵衛が一人旅の美女を怪しみ、あれこれと難癖をつけていると、貴人が小町姫に気づき涙の再会。
そして三人の秘密が次第に明らかになって行きます。

この辺りの展開は、呑気なおじさんキャラの関兵衛が、実は謀反を企む極悪ラスボス、大伴黒主(おおとものくろぬし)だった〜!
となるための伏線。
常磐津(ときわづ。歌舞伎伴奏音楽のひとつ)に乗った、踊りによる掛け合いが多く、古い歌舞伎らしい大らかな雰囲気が見どころです。

雪の夜、桜の妖木が大願(謀反)成就の鍵だと知った関兵衛が一人酒盛りではしゃぎ回り、
木を切り倒そうとすると気絶してしまいます。
すると闇に浮かび上がる、桜の精が化身した傾城(けいせい。高級遊女)、墨染の姿。
ちなみに、墨染は恋人を大伴黒主に殺され、恨みのあまりその生き霊が桜の精と合体しているらしいという、ややこしい状況。
それはさておき。

ふーさんが翻訳例として挙げたのは、桜の精/墨染が姿を現すシーン。重厚な常磐津で語られます。
このあと二人がお互いに正体を現し、派手な大詰めとなる前の、美しくも妖しい雰囲気に満ちています。


画:豊原国周(とよはらくにちか)「積恋雪席扉」積恋雪関扉』(都立中央図書館特別文庫室所蔵)

以下は引用された常磐津の一節です。ご参考までに日本語の現代語訳をつけました。

〽 幻か深雪に積もる桜かげ
実に朝には雲となり 夕には又雨となる

現代語訳:
幻でしょうか 深く積もった雪の中に咲く桜
朝には雲のように 夕には雨のように
(満開の桜の花びらを雲や雨に見立てている)

〽 仇し仇なる名にこそ立つれ……
禿立ちから廓の里へ

現代語訳:
咲いたかと思うとすぐ散ってしまう、つれない桜花のように、
浮き名の立った(遊女として世に知られた)私です……
廓(くるわ)には、幼い頃から見習い子として入りました

中国語訳は、
〽 皑皑积雪深,樱花落影幻亦真
旦为朝云,暮为行雨,又见花缤纷

〽 奴自名满花柳街,娉婷如樱立此边……
花街见习几多年,少时已入花巷间

翻訳では日本語のニュアンスが省略されることなく表現されています。
そして使われている語句は現代中国語ではなく、日本人に分かりやすく言うと「漢詩」調とでも言いましょうか。
「奴自名满花柳街,娉婷如樱立此边……」
この部分を逆に書き下し文風にしてみると、少しは雰囲気が皆様に伝わるかもしれません。
「奴(自分を卑下していう)、自ずから名は花柳の街に満ち、
娉婷(ひょうてい。艶やかで優美な様子)として桜の如く此辺に立つ」

また、ふーさんは俳句や短歌の基本である七五調が歌舞伎でも重視されていることから、七文字、五文字のリズム感の再現を試みたとのこと。
漢詩風な韻も踏んでいます。
その結果、中国語の字面、音、リズム全てが美しく、もはや一つの中国語作品と言ってよい完成度ではないかと感じました。
古典の見識があるふーさんだからこその技でしょう。

前回のブログでご紹介したように、翻訳では「受容化」、読み手側の文化に寄り添い違和感のない訳文にする手法と、
「異質化」、敢えて原文の言葉や文の構成を残すことで、読み手に異文化を感じさせる手法があります。

この詞章の訳文は「受容化」によって異文化を乗り越える翻訳の見事な例で、
当社代表の井原美紀が、「ふーさんは現代の上田敏」と思わず言った言葉に深く頷く私です。

次回はブログ最終回、歌舞伎と京劇のお話!

(トップ画像:楊州周延(ようしゅうちかのぶ)画 『積恋雪積扉』)